中森あづさ(日本小動物医療センター カウンセリング部部長)
あなたの動物病院では、1回に飼い主さんが払う平均的な治療費はいくらくらいであろうか? 5,000円? 10,000円?それとも50,000円?
もちろん地域や手術件数、検査機器等の設備の充実により平均単価は大いに異なるものであるが、それでもやはり「動物病院は高い」と感じる飼い主は多いだろう。人間の健康保険制度が充実している日本だからこそ、とくに獣医療費の高さが目立つということも考えられるが、「家族の一員」となった動物にどれだけお金をかけられるか、という問題は、飼い主にとってかなりシビアな問題である。
秋田犬の雑種、チエちゃんは、4年前に糖尿病の診断を受け、それ以来インシュリンが欠かせない。飼い主のTさん家族の努力により血糖値が安定してきているが、2週間に1回はインシュリンの補充に来院、また月1回は血液検査と、動物病院通いはもうTさん宅にとっては日常となっている。いつも明るいT夫人は、しわくちゃの1万円札を出しながら「チエが病気にならなかったらバックが買えるのに」と冗談めかして笑っているが実は白内障の手術をしようと貯めておいたお金は、すべてチエちゃんに使ってしまったために、しばらく自分の目の治療はお預け状態なのである。
この話は決して特異なものではないことは、未払い、不払いなどを経験されている動物病院の院長ならば、納得できるであろう。
とはいえ、実際に飼い主から面と向かって「高いから安くして欲しい」など価格について文句を言われたり、値引き交渉をされた経験はあまりないのではないだろうか。一般に、日本人には「お金は卑しいもの」という考え方が浸透している。これは儒教の考え方に根ざしているといわれているが、私たちは意識せずとも、お祝いごとのお金を紙に包んで渡すなど(お年玉のぽち袋や祝い袋などが良い例だが)、現金をそのまま手渡すことにある種の抵抗を感じたりと、ことお金に関しては、口に出す、言葉にすることを憚る文化を持っている。そのために、思いもかけず高額な費用を請求された飼い主は、動物病院の受付では「この子のためだから」と無理やり自分を納得させて支払いに応じるものの、家族や友人、飼い主仲間には「あそこは高い」と大いにしゃべりまくることとなる。こうしたマイナスの口コミが広がりやすいのはご存知のとおりである。
日本人のお金に対する認識、それとともにやはり問題となるのは、獣医療は本当にサービス業であるのか、ということ。確かにいくら家族とはいえ、動物であるペットに対する医療なのだから、どこまで治療するか否かは飼い主の責任において自由である。そしてそういった面においては、小動物獣医療はサービス業であろう。しかし、われわれには動物を救う、守るという獣医師としての使命がある。飼い主の求めるサービスのみを提供するわけにはいかないことは当然である。獣医師として、動物のために、提供できる知識と技術を総動員して情報を伝え、そこで飼い主の同意を得たうえで医療を施すことが基本となる。
最近では、手術や特別な検査にはおおよその見積書を渡したり、概算を前もって伝える動物病院がほとんどだろうが、そこでその手術なり検査なりを行うか否かについて、飼い主にじっくり考えさせる時間をとっているだろうか。
エステサロンや語学教室など、その目的の実現が確定でなく、かつ一定の金額を越えている場合の契約においてはクーリングオフ制度が適用されることはご存知だろう。クーリングオフ(cooling - off)つまり頭を冷やす期間を設けているのである。
何の気なしに入ったどこかの事務所の1室で勧誘の人たちに取り囲まれて、その製品やシステムの素晴らしさを叩き込まれ「これは今だけの特典。今日契約しないと損ですよ」と迫られて、やむなくサインしてしまった人々を救う制度である。
でもこれを、事務室を診察室に、勧誘の人たちを獣医師とAHTに、製品を獣医療に、そして「早く治療しないと、良い結果にならないですよ」と置き換えてみると、われわれの世界でいつでも起こり得ることではないだろうか。
しかも、とくに動物病院では、「わが子のために」という大義名分があるために、飼い主は不安を抱えながらも同意書にサインをすることになる。それで飼い主の望むとおりの結果なり効果が得られればよいが、そうでなかった場合、飼い主はどう感じるか。
前回にもお伝えしたが、飼い主にじっくり考える時間、機会を与えることは、飼い主にとってもまた獣医師にとってもとても大切である。なにもすべて家に帰って考えてもらう必要はない。例えば、インフォームドが終わったら同意をもらう前に、診察室内、もしくはいったん診察室を出てもらい、待合室なり玄関なりの病院の外において、飼い主だけで考えられる時間を5分でよいからつくる、といったことである。飼い主が1人で来た場合には、「ご家族と電話などで相談されますか」とこちらから声をかけることもできるだろう。
そして、やはりもっとも重視されるのは、獣医師が情報を伝える際の態度である。とくに深刻な状況など悪い知らせを告げなければならない時には、飼い主の理解を促すためにも「わかりやすい言葉で、ひとつひとつの文章を短く、そして間まをとる」ことに留意する必要がある。なかでも「間をとる」のは、飼い主が自分の話を理解しているかどうかの反応を見るためにも、飼い主が質問を考えるためにも重要なポイントである。「間」もなく矢継ぎ早に言葉を重ねられたら、それでなくとも混乱している飼い主はますますカオスの世界へと飛んで行ってしまうこととなる。そして、その勢いで「はい」と返事をしてしまった飼い主ほど、あとで後悔する可能性が高いことは想像に難くない。
以前にも紹介したコロラド州立大学獣医学部Argus Instituteに勤務するカウンセラー、Barabara L Beach氏は「飼い主にリードさせる」と言っている。「ひとつ情報を与えたらそこで止め、待つ→飼い主が質問をする→情報を与え、そこで待つ」。もちろんたくさんの情報を求める飼い主もいればそうでない人もいる。だが、基本的な姿勢として、はじめの段階で飼い主に合わせた形できちんと情報を伝え、双方の納得のうえ同意が得られれば、結果はどうあれ後々問題が生じることはあり得ないはずである。
飼い主にクーリングオフの時間を与えよう。