中森あづさ(日本小動物医療センター カウンセリング部部長)
例えば、である。ある飼い主さんが「耳を痒がっている」という主訴でシー・ズーを連れて来た。そこで、まず誰もが尋ねるのは「いつから痒がっていますか?」ということだろう。飼い主は一瞬考えたのちに「1週間くらい前からです」と答えたとする。実は、この一瞬の間に飼い主の頭のなかでは『えーと、頭を振ったり変なそぶりを見せたのは実は3週間前くらいだったけど、その時は耳だとは思わなかったし、お父さんがいなくて車もなかったし、先週はみんなででかけちゃったのよね』などという思いがぐるぐる回っている可能性がある。で、その結果の答えが「1週間」となる。
なぜこうなるのか。これは飼い主自身に『もっと早く連れてくればよかったかも』という罪悪感があるからなのだ。罪悪感?そう、健康診断の時に前もって記入する用紙、そこにある「お酒をどれくらい飲みますか?」もしくは「タバコを週どれくらい吸いますか?」の質問に対して、毎日飲むのに平均週3日に丸をつけたり、1日1箱は軽く吸ってしまうのにもかかわらず1日10本としてしまう、あの罪悪感によるウソなのだ。
話をシー・ズーに戻そう。
そこで、ちょっと耳を覗いてみてこれは明らかに1週間どころではないと思った獣医師が「違うでしょ、もっと経ってるでしょ」などと言ってはいけないのである。もともと罪悪感を持っている飼い主にとっては、そうした言葉は自分が責められているとしか感じられないために、自分を守ろうというガードがますます固くなるばかりか、そう言った獣医師に対して逆に怒りが沸いてくることもある。
では、われわれはどうしたらよいのだろうか?
とりあえず飼い主の話は飼い主の話として聞いておいて、検査の結果、その話が疑わしいと思ったら、「気づきにくかったかと思うけど、結構耳の状態が進んでいるので、もっと前から痒がっていたかも知れませんね。耳が痒い時のサインはね……」*などなど、あくまで1週間という飼い主の意思を尊重した態度をとり続けるしかない。そうしているうちに信頼関係が生まれてくると(この獣医さんには何を言っても大丈夫、という安心感)、ウソはだんだん減ってくることになる。
お気づきのように、これは、何も主訴の聞き取りの時だけでのことではない。「渡した薬をきちんと飲んでいるか?」といった類の質問でも起こり得ることである。ここで大切になるのは、獣医学的な情報を引き出すためには、信頼関係を築く必要があるということ。この獣医さんには本当のことを話しても怒られない、責められない、という気持ちを持たせることである。
とくに獣医療においては、飼い主は言葉の話せない子供(しかも決して成人になることのない子供)の親をクライアントとしている小児科医のような意識が求められる。可愛い子供のことすべてを親である飼い主が決定しなければならないという心理的負担は、罪悪感を招きやすいと考えて然るべきなのだ。
「信頼関係を築く」と一言で言っても、そう簡単にできるものではないことは私自身実感しているところではあるが、ここでは、比較的簡単に実施できる方法を紹介したい。
米国の精神科医エリック・バーン(Eric Bern)が創設したパーソナリティ理論であり、またコミュニケーション理論としても用いられている交流分析(Transactional Analisis)という心理療法がある。そこでは、存在認知の一単位を「ストローク」と定義している、などと言うと何のことかさっぱりわからないと思うが、例えば、あなたが「おはよう!」とスタッフに声をかけた時に相手も「おはよう!」と答えたら、それはあなたとスタッフの間でストロークを交換したことになる。「その人の存在を認めることを意味するなんらかの行為」とも言われる「ストローク」は、このような言葉による挨拶であったり、うなずきや笑顔といった非言語的なものもあり、私たちが人と交流するうえでは必ずストロークの交換がある。
ところで、いつの時代でも挨拶ができない人は嫌われるものであるが、それは「ストロークの交換ができない」つまり、交流ができないからなのである。と、ちょっと話が脇にそれたが、このストロークは、3つに分類できるが、ここで求められるのは、「肯定的(ポジティブな)ストロークvs否定的(ネガティブな)ストローク」のポジティブなものである。
飼い主から話を引き出す、飼い主と信頼関係を築くためには、ポジティブなストロークを有効に使うことが大切である。さきほどのシー・ズーの飼い主に「もっ と早く連れてくればよかったのに」と言うのはネガティブなストロークであり、「よく連れてきてくましたね」という言葉がけや態度はポジティブなストロークとなる。それこそペットの「食生活」から「しつけ」まで、あらゆることに責任を持たなければならない飼い主にとっては、「この症状はいつから?」とか「散歩に行ってますか?」といったちょっとした質問に対しても、自分を責めているのではないかとネガティブに捉えられかねない。そうした誤解を少しでも避けるためには、まずどんどんポジティブなストロークをあげよう。
「天気がよくないのによく来たね」から、「毎日お薬をあげるのは大変でしょう」といったねぎらいの言葉など、ともかく自分が飼い主となった時に言われたらちょっとほっとするようなものでよいのである。会話をそこから始めるよう常に意識することは、飼い主とだけでなく、スタッフ(や家族)とのコミュニケーションにおいても大切である。一日を「今日も元気だね!」でスタートしたほうが「いつも冴えないね」と言われるよりもずっと気持ちがよいのは当然である。とくに獣医師からのねぎらい、いわたりの一言を、飼い主はとても嬉しく感じるものである。「毎週きちんと通ってきてよくやってるね」「お散歩大変でしょう」などなど、こうしたストロークを受け取ることによって、飼い主は「この獣医さんは私の苦労を理解してくれている」ならば「本当のことを言っても責められないだろう」という気持ちにもなり得るのだ。